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台湾旅行記@予習編2

 さて、諸々の都合により、大幅に更新が遅れましたが気を取り直して予習編2へと参りましょう。

 といっても今回は結構手抜きの文章です。参考文献「地球の歩き方」で、そこの文章丸写しなんで。

 ま、それでも2・28事件を綺麗にまとめていると思うので、一読してくださいな。では、始まり、始まり~




 第二次世界大戦の結果、1945年に日本が敗北し、台湾から撤収した。当時中国大陸を統治していた中華民国の中国国民党政府(蒋介石政権)が台湾を接収してから、台湾のいっそうの苦難が始まった。

 蒋介石政権は、台湾の日本資産を接収し、膨大な財産を手に入れた。その一方、台湾人(本省人)を、国語(北京語)もろくにできない二等国民として扱った。こうした大陸の人間(外省人)の台湾人蔑視、搾取に対しての、自然発生的な民衆蜂起が、1947年2月27日に起こった2・28事件である。

 ちなみに補足しておくと、国民党が台湾の管理を引き継いだ後、台湾行政長官公署にある21人の上層幹部の中、台湾人は宋斐如(教育処副処長、2・28事件の犠牲者の一人)ただ一人で、316名あるうちの中層幹部の中、台湾人の占める数は17人しかなく、他は皆本省人であった。

 また、これは今の中国にも根強く残っている風潮であるが、自分の親戚を自分の周りのポストにつける、いわゆる「家族政治」も台湾で横行し、酷いところでは文盲の人を学校の先生にしたそうである。さらにこれも今の中国に残る慣行であるが、ひどい汚職腐敗が横行し、1946年1月末~2月上旬にかけては二日に一回のペースで汚職が報道されたほどであった。

 さらに中国の接収後わずか1年で、紙幣の乱発行と外省人が台湾の物資を買占めしたために台湾での物価は400倍へと跳ね上がり、本省人の生活は日に日に苦しくなっていったのであった。

 そんな中、1947年2月27日の新聞には次のような記事が載った

「最近物価が高騰して、経済社会が全般揺れ動き、人民生活は極度の困難に陥り、いくら奔走しても朝は夕を保てなくなってしまった。政府が一日も早く方法を講じて、この苦しみを解決してくれるのを切実に願っている。人民は本当に苦しがっていたのだ。もし再び1945年の日本降伏当時に我々台湾人が抱いていた、『これで侵略者の日本が消えて、我々は本当の中国の一部として栄えある復帰をするのだ』という美しい未来を今でも信じている人がいたら、それはただ馬鹿だけである。人民はもう少しの過分な望みも持てなく、ただ最低限度の安定した生活が出来るのを願うだけであった。…貧しい人は益々苦しくなり、金持ちは益々金持ちになる、そして、その格差がだんだん広がっていく、と言う社会は実に危ないのである。社会各階級の分裂と対立に繋がる。これは社会不安の根源である。このままで極端に走れば、社会は丸ごと動乱してしまう。」

 そして、奇しくもこの「社会丸ごとの動乱の防止」を促す社論が出された当日、2・28事件が起こったのである。

 2・28事件

 ことの発端は、台北市のタバコ専売局の闇タバコ摘発隊(ちなみに摘発隊は取り上げたタバコを再び闇市に流し、その差分で利益を得ていた)が、本省人が多く住み、日本統治下でも政治的独立意識の高かったとある街で闇タバコの摘発中逃げ遅れた闇タバコ密売商の中年婦人を流血するまで殴打したことに始まる。それまでの各種経済的政策や運営に反発していた台湾人は、このタバコ商取締りに抗議し、摘発隊に詰め寄り、それに圧倒された摘発隊が逃げざまに威嚇のつもりで発砲したところ、たまたま一人が死亡してしまった。

 翌28日、台湾人のデモ隊が専売局に押しかけ、国民党の台湾総督にあたる陳儀長官のいる行政長官公署に向かった。そのとき、機関銃が発射され、数十人の死傷者を出した。これに憤慨した台湾人は放送局(現2・28記念館)を占拠し、全島に蜂起を呼びかけ、台南、高雄など各都市で行政の奪還や外省人商店の破壊などが起きた。こうして、全国的な「反乱」に発展していった。

 陳儀はその日に戒厳令を発布するも、3月1日に「2・28事件処理委員会」の設立に同意し、放送局を通じて陳儀は2・28事件を台湾人参加のもと、解決し、政治改革すると確約した。これにより、3月5日までにかけて逐次騒動は収まっていった。

 ところが3月7日、委員会が陳儀に提出した処理大綱を陳儀は見もせずに破り捨て、掌を返すように前に承諾したことを撤回した。なぜか?

 実は、陳儀は表は委員会に従う動きをして、裏で南京の蒋介石へと打電し、大陸からの増援部隊を要請していたのである。蒋介石はこれを承諾し、軍を派遣、そしてその到着が8日だと陳儀は知っていたからである。

 そして3月8日、基隆に増援部隊が到着し、その日から「血の大粛清」が始まったのであった。

 無実の本省人を遊ぶように殺戮し、日本教育によって知識、教育、経験をつんだ台湾人知的エリート層も抹殺・根絶し、2万8000人近い人間が虐殺されたとなっているが、犠牲者は10万以上との説もあり、未だ正確な数はわかっていない。ちなみに、当時の台湾人は600万人程度であった。

 このとき、国際法で禁止されているダムダム弾も使用された。

 これにより、台湾人のエリートを消去して抵抗力をなくしたのちに台湾人への恐怖政治が始まったのであった。


 さて、予習編2はここらへんで。次にもう少し補足してから本編の旅行記に入ろうかと思います。

 ちなみに、蒋介石は日本がソ連などに分割統治されるのを防いだことで結構知られているようですが、実際は上記の虐殺を平気で指令している人なので、一面だけを判断しては危険だと考えますね。

 じゃ、今回はここらへんで。長い文章、ここまで読んでくれてありがとうございました。
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comment

「蒋介石は日本がソ連などに分割統治されるのを防いだことで結構知られているようですが」

って実はそうともいえないらしい。

蒋介石が日本にそういう都合のいいガセを持ち込んだんだって言ってる本があって。

参考文献は言わないけど、

蒋介石伝説ってのがあって、

①「天皇廃止に反対した」
②「ソ連の分割統治に反対した」
③「日本に対して賠償金請求しなかった」

文献をあたるとわかるけど、全部ガセらしい。


ということが書いてありました。

まぁ真偽のほどはよくわからんけど汗

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北兎。。

Author:北兎。。
誕生日 阪神が優勝した年の4月5日。
年齢 お酒を飲んでも咎められなくなりました。
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趣味 読書、ピアノ、剣道
出身地 そば飯の発祥地です。
特技 ピアノ…にしておく。一応3歳から。
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