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ブダ+ペスト

 さりげなく更新です。

 こら、北兎、旅行行ってんじゃないのかって思う方もいらっしゃるかと思いますが…

 えっと、ブダペストから更新しています

 デジカメを繋ぐ奴持ってきてないので写真をここにアップすることができませんが…

 あ、パソコン持っていったんですよ

 組織用に…orz...
 
 えっと、組織…

 確実に落ちそうです

 毎晩お酒を飲んではパタンキューな生活をしているもので

 今回招待してくださった方も面白い方なのでつい…

 ま、あがくだけあがいてみます

 では、とりあえずここいらで

 これからブダペスト、プラハ、ザルツブルグと回って、23~28まで、ほぼ毎日ウィーンフィルのザルツブルグ音楽祭に行ってまいります。

 プラハ、ザルツにはネットにつなげない恐れがあるので、旅行先での更新は今日が最後かもしれません

 あ、今日本って午後四時か。こっちは午前9時すぎ。いまから観光行ってきます。では~

台湾旅行記@予習編2

 さて、諸々の都合により、大幅に更新が遅れましたが気を取り直して予習編2へと参りましょう。

 といっても今回は結構手抜きの文章です。参考文献「地球の歩き方」で、そこの文章丸写しなんで。

 ま、それでも2・28事件を綺麗にまとめていると思うので、一読してくださいな。では、始まり、始まり~




 第二次世界大戦の結果、1945年に日本が敗北し、台湾から撤収した。当時中国大陸を統治していた中華民国の中国国民党政府(蒋介石政権)が台湾を接収してから、台湾のいっそうの苦難が始まった。

 蒋介石政権は、台湾の日本資産を接収し、膨大な財産を手に入れた。その一方、台湾人(本省人)を、国語(北京語)もろくにできない二等国民として扱った。こうした大陸の人間(外省人)の台湾人蔑視、搾取に対しての、自然発生的な民衆蜂起が、1947年2月27日に起こった2・28事件である。

 ちなみに補足しておくと、国民党が台湾の管理を引き継いだ後、台湾行政長官公署にある21人の上層幹部の中、台湾人は宋斐如(教育処副処長、2・28事件の犠牲者の一人)ただ一人で、316名あるうちの中層幹部の中、台湾人の占める数は17人しかなく、他は皆本省人であった。

 また、これは今の中国にも根強く残っている風潮であるが、自分の親戚を自分の周りのポストにつける、いわゆる「家族政治」も台湾で横行し、酷いところでは文盲の人を学校の先生にしたそうである。さらにこれも今の中国に残る慣行であるが、ひどい汚職腐敗が横行し、1946年1月末~2月上旬にかけては二日に一回のペースで汚職が報道されたほどであった。

 さらに中国の接収後わずか1年で、紙幣の乱発行と外省人が台湾の物資を買占めしたために台湾での物価は400倍へと跳ね上がり、本省人の生活は日に日に苦しくなっていったのであった。

 そんな中、1947年2月27日の新聞には次のような記事が載った

「最近物価が高騰して、経済社会が全般揺れ動き、人民生活は極度の困難に陥り、いくら奔走しても朝は夕を保てなくなってしまった。政府が一日も早く方法を講じて、この苦しみを解決してくれるのを切実に願っている。人民は本当に苦しがっていたのだ。もし再び1945年の日本降伏当時に我々台湾人が抱いていた、『これで侵略者の日本が消えて、我々は本当の中国の一部として栄えある復帰をするのだ』という美しい未来を今でも信じている人がいたら、それはただ馬鹿だけである。人民はもう少しの過分な望みも持てなく、ただ最低限度の安定した生活が出来るのを願うだけであった。…貧しい人は益々苦しくなり、金持ちは益々金持ちになる、そして、その格差がだんだん広がっていく、と言う社会は実に危ないのである。社会各階級の分裂と対立に繋がる。これは社会不安の根源である。このままで極端に走れば、社会は丸ごと動乱してしまう。」

 そして、奇しくもこの「社会丸ごとの動乱の防止」を促す社論が出された当日、2・28事件が起こったのである。

 2・28事件

 ことの発端は、台北市のタバコ専売局の闇タバコ摘発隊(ちなみに摘発隊は取り上げたタバコを再び闇市に流し、その差分で利益を得ていた)が、本省人が多く住み、日本統治下でも政治的独立意識の高かったとある街で闇タバコの摘発中逃げ遅れた闇タバコ密売商の中年婦人を流血するまで殴打したことに始まる。それまでの各種経済的政策や運営に反発していた台湾人は、このタバコ商取締りに抗議し、摘発隊に詰め寄り、それに圧倒された摘発隊が逃げざまに威嚇のつもりで発砲したところ、たまたま一人が死亡してしまった。

 翌28日、台湾人のデモ隊が専売局に押しかけ、国民党の台湾総督にあたる陳儀長官のいる行政長官公署に向かった。そのとき、機関銃が発射され、数十人の死傷者を出した。これに憤慨した台湾人は放送局(現2・28記念館)を占拠し、全島に蜂起を呼びかけ、台南、高雄など各都市で行政の奪還や外省人商店の破壊などが起きた。こうして、全国的な「反乱」に発展していった。

 陳儀はその日に戒厳令を発布するも、3月1日に「2・28事件処理委員会」の設立に同意し、放送局を通じて陳儀は2・28事件を台湾人参加のもと、解決し、政治改革すると確約した。これにより、3月5日までにかけて逐次騒動は収まっていった。

 ところが3月7日、委員会が陳儀に提出した処理大綱を陳儀は見もせずに破り捨て、掌を返すように前に承諾したことを撤回した。なぜか?

 実は、陳儀は表は委員会に従う動きをして、裏で南京の蒋介石へと打電し、大陸からの増援部隊を要請していたのである。蒋介石はこれを承諾し、軍を派遣、そしてその到着が8日だと陳儀は知っていたからである。

 そして3月8日、基隆に増援部隊が到着し、その日から「血の大粛清」が始まったのであった。

 無実の本省人を遊ぶように殺戮し、日本教育によって知識、教育、経験をつんだ台湾人知的エリート層も抹殺・根絶し、2万8000人近い人間が虐殺されたとなっているが、犠牲者は10万以上との説もあり、未だ正確な数はわかっていない。ちなみに、当時の台湾人は600万人程度であった。

 このとき、国際法で禁止されているダムダム弾も使用された。

 これにより、台湾人のエリートを消去して抵抗力をなくしたのちに台湾人への恐怖政治が始まったのであった。


 さて、予習編2はここらへんで。次にもう少し補足してから本編の旅行記に入ろうかと思います。

 ちなみに、蒋介石は日本がソ連などに分割統治されるのを防いだことで結構知られているようですが、実際は上記の虐殺を平気で指令している人なので、一面だけを判断しては危険だと考えますね。

 じゃ、今回はここらへんで。長い文章、ここまで読んでくれてありがとうございました。

台湾旅行記@予習編1

 さっきまで大作を書いていたのにIEの勝手なエラーによってすべて原稿が消えました…もう一回書くのかと思うとかなり欝です。

 はあ、頑張ってもう一回書くかな

 

 題名にあるように、今回は予習編です。今度の台湾旅行には少し台湾の歴史などを理解して欲しいので。

 これを読んでおかないと台湾旅行記が読みにくく

なる部分が出てきます。それでもいいなら今回の

文章は飛ばしちゃってください。


 


 それでは、予習編1の始まり始まり~


 まず、台湾ってどんなところかご存知ですか?

 ちなみに旅行前に自分が持っていたイメージは

 ・なんか中国と独立云々でぎすぎすしてるよね
 ・経済が盛んだとか?
 ・昔、日本が占領してたよね

 こんな程度でした。それで今回の旅行でみきをに色々本やら知識やらをもらって知らなかったことを色々知りました。

 台湾にはかなり重い歴史があったんです。その名も2・28事件。詳細は次の予習編2にまわしたいと思います。とりあえず予習編1は台湾の近代からの歴史をざっと見直して、台湾はどんなとこなのか理解してもらいましょう。

 

 17世紀、台湾は日本への中継点としてオランダやスペインに一部を占領された。結果的にはスペインはオランダに追い出され、そしてオランダは清朝に負けて台湾に逃れてきた明朝の鄭成功によって追い出された。

 1683年、鄭の死後、明朝は清朝に滅ぼされ、台湾は1684年、福建省に隷属された。これ以降、清朝は200年もの間、台湾を支配したが、清朝は特に台湾を開発しようともせず、簡単に言えば清朝は台湾を放っておいたのである。ちなみに、移民がこの時期に台湾を開発したらしい。

 1895年、日清戦争で日本に負けた清は下関条約で台湾を日本に割譲した。無論、台湾では抗日運動が起き、日本は台北に無血入城したものの、5ヶ月間の抵抗運動により、日本軍は死者278名、負傷者654名を出した。結果的に日本軍は勝利したが、このときに台湾人14000人近くが戦死、もしくは殺戮されたという。

 ちなみに、当時の植民政策ではこんなことは世界中で起こっていたことに注意。何も台湾が特別なわけではありません。無論、殺戮が許されるとは思いませんが。

 抗日運動が下火になると、武力によって台湾を支配していた日本は方針を転換し、これまでオランダ、スペイン、清がやってこなかった台湾の大掛かりな開発に着手。台湾のインフラ整備、日本式の教育施設の導入、産業の工業化に力を入れた。

 これは、当時の植民政策では驚くべきものであった。普通、現地人に教育すれば知識人が増え、反乱の火種となりうるからである。つまり、日本は台湾を占領したが、台湾人を殖民対象とせず、日本人としてみていたのである。無論、差別待遇もあったが。

 1945年、第二次世界大戦で敗北した日本は連合国に無条件降伏。その結果、台湾も手放すこととなったのである。そのとき、中華民国のトップであり、連合国で中国方面最高司令官でもあった蒋介石が台湾を接収したのである。いわば、日本でのマッカーサーのような立ち位置がそのときの台湾にとっての蒋介石であったのである。ちなみに、蒋介石は日本に負ける寸前だったのがこれにより助かったのである。

 1947年、2・28事件が勃発。このときに発令された戒厳令は1987年まで続いた。(戒厳令とは、軍部が司法や行政の権限を奪って独裁状態にできること。いわば剣がペンより強い状態ってことかな)

 1949年、蒋介石の国民党が毛沢東の共産党に負けて台湾へと亡命。中華民国の臨時首都を台北に置き(ちなみに正式な首都は南京としている)、以降、中国本土を取り戻そうとあれこれするが、1971年に毛沢東の中華人民共和国が国連に正式に中国として認められると、蒋介石の中華民国は急速に国際的に孤立していった。

 1988年、蒋介石の息子であり、国民党の総統であった蒋経国が死去の後、初めて台湾生まれの李登輝が国民党の総統として指名される。ここに国民党下であるが、台湾人総統が誕生したのである。

 以降、急速に台湾は民主化が進み、今は反国民党政党である民進党が政権を握っている。

 こういう風に台湾の歴史はなっています。

 つまり、内戦で負けた方が台湾に入って「うちが本当の中国だ」と叫んでいたために話がややこしくなっているんですね。今は、日本で言うならGHQが「本当の日本だ」と叫んでいるようなもので、正式な政府ではなく、未だ台湾は「占領」されている、と公式にはなっているんです。

 無論、台湾の人々も今では自分たちが中国人ではなく台湾人であるという意識を持つ人が過半数になってきたので、独立したいのは山々なんですが、中国の武力介入を恐れて自由にできない、ということもあるようです。

 さて、今回はあまり多くを語りませんでしたが、次は2・28事件について語りましょう。天安門事件よりもよっぽど悲惨な事件でありながら、全く知られることの無い台湾での悲しい歴史を皆さんにも知って欲しいのです。

 また、今回の文章においては参考文献として「地球の歩き方」「ウィキペディア」を使い、基本的に事実と現状を淡々と書いたものです。私情はなるべく挟まないように努力しました。

 その上での批判などはちゃんと受け付けますが、根拠を示さないものに関しては一切関知いたしません。根拠を熟慮した上で間違いだとわかったものはちゃんと訂正します。また、歴史に関しての文句は「地球の歩き方」・「ウィキペディア」にしてください。

雨雨降れ降れ母さんが~…

 蛇の目でお迎えはありませんでした…

 というかスキーに行って雨降りとかマジないっすから

 帰るときにはウェアがびしょびしょ。防水スプレーも奮闘空しく…

 なんだか運が悪かった今期二回目のスキーでした。

旅行記@12月27日

 さて、そろそろ次の旅行が迫ってきたのでいいかげんこの旅行記も終わらせねばなりません。

 ということで今回はさくっと終わらせましょう。



 27日、この日も5時台に起床。みなを起こさないように注意しながらホテルを出ました。

 ところが姫路で乗るはずの新快速を乗り過ごしてしまったのでそのあとの快速に乗って一路、神戸を目指しました。

 といっても神戸の中心は神戸駅ではなく、三ノ宮(さんのみや)という駅なので、そこで降りました。ここで大体8時かな。

 みきをが震災のモニュメントを希望していたので、震災センターみたいな博物館は時間が時間なので開いておらず、メリケンパークの震災当時の陥没したままを保存している埠頭を見に行ってきました。

 といってもここも福岡天神と同じ状況。このモニュメントを見終わってしまった今、午前8時半くらいで神戸らしいものは何一つ見せることはありませんでした。

 結果、三ノ宮からすこし乗って住吉へ。

 ここまで読んだらわかるひともこのブログを見ている人には多いでしょう。

 そう、我らが母校、N高校を見せてきました。どうやら彼の出身高、K高校よりかは広いみたいですね。ま、とりあえず寝てるだけで頭がよくなりそうなカプセルとかないってことを確認してもらえました(謎

 ついでにちょこちょこ先生方にも挨拶して失礼してきました。自分にとっての恩師、T先生に会えなかったのは残念でした。アポなしだから仕方ないんだけどね。

 その後、芦屋までみきをと一緒に行って自分はそこで彼と別れました。彼はそれから関東まで帰っていきましたが自分の旅はここで終了。まだお昼だったのでその後は大阪とかで高校時代の友達と遊んだりしてました。

 さて、難産だったこの旅行記でしたが楽しんでもらえましたかね?18切符はともすればひたすら電車に乗っているだけの日もあったりするけど、でも地に足つけて移動している分、新幹線とか航空機よりも景色が心に残ります。是非、みなさんも一度はしてみて欲しいものです。

 ま、女性にはちときついかもしれませんが…

 では、28日から台湾にみきをとSOURと行って来るので、その旅行記も楽しみにしていてください。

 ついでにここまで読んでくれた慶應の人たちにお知らせです。

 2年生の時間割が発表されましたよ。信濃町キャンパスの学事HPにありますんでDLしてはいかかでしょう?

 では。明日、書けたら昨日ひょんなことから見に行った渋谷Bunkamuraでの印象派コレクション展について書きたいと思ってます。

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プロフィール

北兎。。

Author:北兎。。
誕生日 阪神が優勝した年の4月5日。
年齢 お酒を飲んでも咎められなくなりました。
性別 男子校出身ですね。
血液型 どなたにも献血できる便利な血液型です。
星座 メェ~
職業 かろうじて大学生。
趣味 読書、ピアノ、剣道
出身地 そば飯の発祥地です。
特技 ピアノ…にしておく。一応3歳から。
長所    一度決めたところまではやり遂げるところ
短所    でも決めたところまで行ったら何もしなくなるところ
好きな食べ物 和菓子や和食。胃に優しくすごしましょう…
嫌いな食べ物 ゲテモノ。

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